非難する馬鹿、案出す秀才
議論において、最もいらない人間は「人の意見に批判だけする奴」だと思います。
何も案を出さないけど、とりあえず相手のことを批判だけする連中は、本当に進行の邪魔以外、何物でもありません。
勿論、必要な批判はあります。
しかし、批判なんてものはどんな馬鹿でもできるのです。
正しい批判は、批判した後で、よりよい案を出すものです。
批判だけして何もしないやつよりも、批判されたやつの方が行動している分マシです。
しかし、その批判をしたうえで、新しい案を出す、というのはさらにレベルが上の存在と言えます。
1を0にするのはどんな無能でもできます。
1を2にする人間は普通です。
0を1にする人間は天才でしょう。
そして、1を5にする人間は秀才と言えます。
・・・わかりにくいですね。
新しい行動や案を潰すのはどんな馬鹿でもできるのです。
そして、その新しい案をちょびちょび伸ばしていけるのは普通の人。
また、何もないところから新しい案を出せるのはひらめきが必要なので、できるのは天才だけです。
しかし、普通の人が1を2にしている時、その進みの遅さを批判し、新しく早い進み方を出せるのは秀才にしかできないことなのです。
・・・ということです。
そして、1を5にする、というのが、批判してより良い方法を編み出す、ということです。
これは生まれ持っての才能や、ひらめきなんてものは必要ありません。
だって、天才がひらめきでパンと作ったものを観察し、他と比べ、もっととがらせるだけなのですから。
足し算を作ったのは天才。
掛け算を作ったのは秀才。
そんな感じです。
話がずれましたが。
これは自分自身の努力や、一人での物事の進め方に生きてきます。
例えば、何か運動を始めて、結果が出ないことに対し、
「この練習はだめだ。他の練習をしよう」
を繰り返していては一生上手くなれません。
その練習の何がダメか、何を改善したら良いのか。
何のポイントが自分に合っていないのか。
これらを洗い出さない限りは、練習そのものを変えても何の意味もないのですから。
そして、その練習を変えていく、というのは人の案を非難しているだけ、と同じです。
「お前の案はこれがダメだ」というのは、自分の意図はどうであれ、やめさせる方向に進める話し方でしかありません。
しかし、「その案はここが甘い。だから、こうしてみてはどうだろう?」のように、自分の案を述べることはその案を進化させることになります。
そして、人の案を進化されせられるのであれば、それを自分のものにも生かす練習をしていけばよいのです。
物事は練習をしやすい方法が数多とあります。
特に自分の能力向上に関しては、人の能力向上を考えていると、自分に戻しやすいのです。
なんてったって、自分のことなのだから、相手よりもわかっていますからね。
だから、人の意見を非難するだけの人間はその場だけでなく、その先においてもバカなのです。
案を出すのは自分にも案を出せるようになります。
だからこそ、それを反省して伸ばせるから、秀才へとなれるのです。
楽してバカになるか。
努力して秀才になるか。
自己責任で考えてくださいね。